中野邸記念館

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100年以上を経過した石油王の大邸宅と大庭園

The stately residence and the garden of the Oil King with a history of more than 100 years.

 当館は江戸中期から続く中野家代々、特に、石油産業で日本経済に貢献し日本の石油王と言われた中野貫一と希代の美術品、盆栽収集家であった忠太郎を主とした様々な資料、遺品、美術品や庭園を含めた足跡を公開する為に設立されました。

【中野貫一の最晩年の和歌、辞世の句】

 この和歌は貫一が最晩年に自身の心境を詠んだもので、その後の和歌が無いことから辞世の句と言えます。

「何事もなしえぬ 老いの身にしあれば あつき恵みに いかで報いむ」
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(意訳)

 私もすっかり年老いてしまい、大したこともできなくなった。石油採掘に成功し今があるのは、神仏のご加護を受け、多くの人々に助けていただいたからに他ならない。授かった多くの恵みにいかに応えようか。


※鶴堂は貫一の号
句碑は平成29年泉恵園命名時に泉恵園内通路中央に記念建立。
揮毫:故 板倉華游

※泉恵園の名称は貫一のこの辞世の句に因んだものです。

【中野家の慈善事業について】

 貫一は日本の石油王と称されましたが、決して奢ることなく、多方面に私財を寄付しました。中でも教育が日本の発展に欠かせないもの、国家の礎になるとの見地から、恵まれない若い世代の育英の為に、中野財団を設立し巨額の私財を寄付しました。
 その意志は忠太郎にも引き継がれました。

【※神仏の御加護について】

 16歳しか違わない親子であった貫一、忠太郎は掘れども掘れども噴出しない井戸に困り果て、今や命運も尽きるかという状態でした。ある日、忠太郎の枕元に観音様が現れ、『この井戸をもう一度掘りなさい』とのお告げを受け、その井戸を再掘削したところ商業規模の産油があり、その後の隆盛に繋がりました。貫一、忠太郎は成功を収めた後も神仏の御加護に感謝し、敷地内に多くのお堂を建立、神仏像を収集した経緯があります。

【中野貫一翁 処世訓】
「無理、驕り、朝寝、かけごと、つつしみて 生業はげめば子孫栄えむ」

 貫一は父の逝去により14歳で代々続く庄屋の家督を継ぎました。約500町歩の田畑を有し、名主を務め、地元をまとめるのは相当の苦労があったであろうことは想像に難くありません。

 たまたま、近隣に、青年に勉学を授ける勉強所を開く優秀な医師がおり、師事したことは、貫一の勉学、知識を向上させました。諸外国にも興味を持ち、石油掘削にも米国の機器を導入し大成功をおさめたことは若き頃の教育の成果と言えましょう。父を亡くし若き時代に苦労し、素晴らしい教育を受けたことが後の育英財団設立に繋がります。

 当館の邸宅、各蔵、邸宅内庭園、泉恵園は当時の失業対策として、敢えて長い年月をかけて大規模に造られましたが、貫一は『日本の石油王』と称された後も、自身、家族は質素に暮らしました。当館邸宅の家族住居部分の質素な造りに貫一のその強い意志が反映されています。その生涯を通して育英事業、教育施設、地域医療、催し等に多額の資金を寄付し大きな貢献をしました。

 この処世訓は中野家のみならず、社会、一般家庭へのメッセージと言えましょう。